서양인들의 동해 탐방과 『수로지』속의 독도
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초록
1840年にシーボルトが作成した地図のTakashima、Matsushimaは、シーボルトが日本で得た地図を参照にした鬱陵島(=竹島)と独島(松島)だったが、西洋人が鬱陵島を誤って測量したアルゴノート島と鬱陵島を正確に測量したダジュレー島の名前と経緯度を、それぞれ二つの島の名前の横に並記したため、島の名称が混乱を起した。西洋における鬱陵島と独島の名称混乱は、フランス船が独島を発見した1847年以降に起きた。それが日本で影響を与え始めたのは、東海に3個の島が描かれた地図が日本で初めに発行された1869年以降であった。日本政府の一部では独島の伝統的な名称「松島」を19世紀半ばにはほとんど忘れていた。しかし多数の民間地図は19世紀末まで独島を「松島」という伝統の名称で描いたものが多かったという事実を見る時、江戸時代の独島の名称が日本人たちの頭からまったく消えたわけではなかった。ところが日本の海軍省水路部は各『水路誌』に独島は1847年にフランス船によって初めて発見された島と記して、日本史の中の独島の歴史と伝統的な独島の名称(=松島)を無視したまま、先ず「朝鮮東岸」に独島を「リヤンコールト列岩」と記載した。しかし水路部が発行した『寰瀛水路誌』や『朝鮮水路誌』は、「リヤンコールト列岩」(=独島)の経緯度を朝鮮の領土の外と記した。日本の学者たちはそれを指摘しながら、1905年以前に日本は独島を朝鮮領土と思ったことがないと主張する。しかし『水路誌』の朝鮮の範囲から鬱陵島も除かれているので、日本の作成した朝鮮の範囲自体に問題がある。ところで1876年に日本の外務省は、西洋人の名付けた「リヤンコールト列岩」という名称の島は「古来の松島(=独島)」と結論を下した事がある。しかし1880年に鬱陵島を調査した後、日本政府は鬱陵島を「松島」、独島を「リヤンコールト列岩」という名称に固定してしまった。結局、1880年に日本政府と外務省は、独島の古来の名称が「松島」だったことを知りながらその名称を捨てたところに問題の素地があった。 1883年以降に発行された各『水路誌』には、独島が「1847年にフランス船によって「初めて発見された」と記載され、松島(=独島)の歴史は一切無視されてしまった。このような背景で、1905年には独島は日本人たちによって無主地と宣言され、島根県に編入されたのだった。
