『源氏物語』と仏教
Genjimonogatari and Buddhism
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초록
本稿では、ꡔ源氏物語ꡕがいかに仏教を自己相対化の視点や方法としつつも、それに収斂されない固有の世界を創造していったかを、愛執や救済の問題などを中心に考えた。 まず、若紫巻や賢木巻の光源氏の出家願望の敍述を通して、出家思念が、恋の絶望といった作中人物の情念をかたどる効果的な表現方法であるとともに、自己相対化の思考の契機を提供している点から、仏教が物語の方法として有効に取り込まれていることを述べた。 次に、愛執の問題の一端として、朱雀院の「心の闇」の表現性と、幻巻の光源氏の述懐に注目した。朱雀院の「心の闇」から喚起される愛執の問題が、彼の人物造型よりは光源氏の問題へと収斂されてゆくところに、ꡔ源氏物語ꡕのあり方が示されていた。光源氏の述懐に見られる人間の愛執への認識は、その命題と対峙し揺さぶられ続けてきた彼の実人生の軌跡を証し立てており、特に紫の上との愛の関係は、仏教の愛執否定の思想をも相対化していると見られる。 さらに、物語にとっての救済の問題を、仏教の救済論理との相関を通して考えた。まず、死を前にした紫の上像の造型を釈迦入滅の比喩表現や浄土教の来世観念との関わりから考え、彼女の救済を意味を探った。また、目連救母説話に見られる孝の論理、来世での夫婦の再会という「一蓮托生」の発想、そして人生の憂苦を「仏」の方便とする観念などを通して、仏教の救済の論理と対峙する光源氏の「まどひ」と救いのあり方を考えた。物語は、光源氏の最終的な姿に、仏教的な文脈とは異なる次元で、救いを予見していると思われる。ꡔ源氏物語ꡕに語られる仏教の救済の論理は、さまざまな人間救済の可能性を提示しながらも、むしろそこに収まりきれない人間存在の実体と本質を証したてるものとして取り込まれているのであった。
