橫光利一「機械」試論
A Study on Yokomitsu Riichi's Kikai : "Watashi" as a Fioctional Existence
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Abstract
日本の近代文学は、いわゆる「自我」というものの発見から始まったと言ってよい。その「自我」文学の延長線上に自然主義文学があり、また、それを次ぐ形で私小説の伝統が続いていることは言うまでもない。しかし、「自我」の姿を発見し、その正体により確実に迫っていくにしたがって、「自我」というものが、実は「他者」という存在によってしか捉えられないという事実をもだんだん自覚されるようになった。つまり、どんな小説の形式であれ、小説の中に書かれる「私」は、単に「自我」というものの正体としてのみでなく、あらゆる他者の可能性として存在し得るということを認めざるを得なくなったわけである。そこに、「私」という存在の実体性、或いは、主体性を浮彫りにしようとする私小説的文学形式の限界を見ることができる。 一般に「私」(という言葉)は一人称として考えられているが、しかしその考え方は間違いではないにしても、少なくとも「私」という言葉の含む意味を総体的に表した説明でもない。特に小説のなかに書かれる「私」の意味においてはなおさらである。小説を書く私にとっても、小説を読む私にとっても、小説のなかに書かれる「私」は、結局「他者」であるほかない。なぜなら、文字という記号で書かれた以上、それは決して生身の私とは全くの同一物にはなり得ないからである。小説のなかで、「私」は、単に主体、或いは、自我の姿のみで存在するのではなく、むしろ、他者の姿をしてわれわれ読者の前に現われるのであり、さらに言うならば、「私」は他者の可能性として現われることによって、はじめて小説のなかで機能するとも考えられる。 本稿では、上記のような問題意識を視野に入れつつ、私小説的伝統の文学観に真っ向から対抗した横光利一(1898~1947年)が、自分の小説のなかに「私」の姿をどのように描いていたのかについて探る。具体的には、彼の新心理主義文学時代の代表作である「機械」(改造、1930年9月)を分析テクストにし、その中に現われる「私」の姿を分析、考察することを通し て、「私」の正体をめぐるあらゆる他者性の問題について考えてみたい。
참고문헌 (13)
- "小說の中の語り手 私" (2000), 近代文芸社
- "秀實 『探偵のクリティック 昭和文學の臨界』思潮社1988年" (1988)
- "語られた自己, 日本近代の私小說言說" (2000), 岩波書店
- "小說の 私 を探して" (1999), 未來社
- "文學の中の他者 共存の深みへ" (1998), 菁枾堂
- "日本語の視点" (1995), 創拓社
- "『他者のような自己自身" (1996), 法政大學出版局
- "橫光利一事典, おうふう" (2002)
- "齒車 と 機械 ─自我の崩壞 , 同著者『近代文學 弱性の形象" (1999), 翰林書房
- "機械 論─審く 私 審かれる 私 ─", 25 (2000), 金澤大學國語國文學會
- "という虛点─作品空間の 貌" (1983)
- "同著者『近代作家の文 』櫻楓社1985年" (1985)
- "橫光利一における他者の發見" (1998)
