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?光利一の異文化??及びその表現  -<文>化することの意味をめぐって-

Intercultural experience and Style in Yokomitsu-riichi's literature

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주제분류일본어와문학

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Abstract

本稿は、横光利一(1898-1947)の文学観(表現観=文字観)を中心に、異文化(他者)体験を表現することの意味を探ろうとする試みである。 横光の異文化体験は、朝鮮体験(1922年9月)と上海体験(1928年4月)、そして欧州体験(1936年2月-8月)の三つに分けて考えることができる。彼の異文化体験は、彼の書いた様々な文章や作品のなかに表現されているが、しかし、その体験は決してそのままの形で再現されているわけではない。本稿で注目するのは、体験した異文化(他者)そのものと、それを表現した文学(文字テクスト)との関係である。本論の議論から明らかにしたように、「文字そのものの物体と、その文字を意味する実物とは絶対に同一物体ではあり得ない」という文字(表現)観をもつ横光にとって、自分の体験した異文化体験を書くという行為は、常に<文>化の過程、或いは、異<文>化のプロセスとして小説テクストのなかに現前することになる。彼にとって、小説を「書く」という行為、特に自分の体験を書くという行為は、「文字の表現」によって自分の体験と異る異空間を創り出す作業として現われた。自分の体験と異る体験空間を再創造することによって浮かび上がってくるもう一つの異文化の生成可能性、それは横光の文学世界のもつ重要な特徴の一つである。そのような過程を通して、横光は自分の異文化体験から、他者(朝鮮・上海・欧州)の姿を発見すると同時に、自分(自己=日本)という正体が、実はその他者(異文化)との関係を通してしか意味をなさないということを強く自覚するようになったと考えられる。 横光の書いた異文化(他者)体験テクスト(例えば『上海』)を読むわれわれ読者にとって、彼自身の実体験を「読む」という行為は、<文>化された、或いは、異<文>化されたテクストの中を体験する行為にほかならない。結局、われわれ読者の捉えた作者の体験というものは、作者の書いた文字空間(文学空間=表現空間=言語空間)のなかから読み取った解釈の結果にほかならないのである。文学の世界において、現実そのまま(ありのまま)の表現というものは理論的にも実践的にもあり得ないのであり、もしあり得るとすれば、それは、ありのままであるかのように捉えようとする解釈の立場だけが存在するという事実を見逃してはならない。横光の文字(表現)観がわれわれ読者に示唆してくれるのは、文学における<文>化の意味であり、異<文>化のプロセスによって創り出されていく新しい異文化の生成可能性である。

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