본문 바로가기
KERD
논문KCI 등재

倭의 百濟 援助와 蘇定方의 平壤城 撤軍

Tang China defeat in Pyongyang Castle & Koguryeo-Japanese military alliance

0

조회

0

다운로드

16

인용

0

참고문헌

키워드

주제분류역사학

초록

660年 7月 蘇定方の13萬大軍が 百濟白村江口へ上陸した. 唐軍は 新羅軍5萬と聯合して百濟を滅亡させた. 9月 蘇定方は 兵力大部分を引って 唐に撤收した. それと 百濟人たちが 大規模で抵抗した. 10月 百濟復興軍の指導者福信が 倭國に使臣を遣わして援助を要請した. 倭王は 要請を受け入れ 百濟に軍需物資を送るようにした。10月 18日 新羅の反擊があった. 新羅の攻擊が始まって, 百濟の20餘城が降伏した. 30日 百濟人1500名を殺した. 11月 5日 百濟の王興寺城が陷落されて, 700名が戰死した. 百濟復興軍が 窮地に追い付きました. しかさ 661年初から 百濟復興軍の戰力が 強くなった. 倭國の軍需物資支援が 大きな作用をした. 百濟人たちは 唐軍1千を全滅させて, 新羅軍が 周留城から敗北した. そうしたら 百濟の南方のいろんな城が 百濟復興軍に復屬したし, 福信は 乘勢に乗って熊津府城を包圍した. 661年 2月から 4月まで 百濟人たちは 新羅の主力軍團の大幢, 郎幢, 上州, 下州などを 擊破して 多くの被害を与えてくれた. 661年 7月, 蘇定方の唐軍が 高句麗の平壤城を包囲した. 新羅は この人たちに 補給するために軍隊を北上させた. しかし 倭國の支援を受けた 百濟たちは 彼らを止めさせた. 百濟地域の唐軍駐屯地の熊津府城が 危險だった. そのまま放置したら 唐軍は 全滅するはずだった. これを救援していて 平壤城を攻擊している唐軍に補給がたくさん遲滯された. 百濟駐屯唐軍の全滅を防ぐため 新羅は 百濟で 戦争をするべきだったし, 新羅補給部隊の平壤行は 662年 1月に 再開した. 661年 8月 倭王は前將軍阿曇比邏夫連などを送って百濟を援助した. 同時に重ねて武器と食糧を送った. 海路を通じた補給は 陸路より早くて多い物資を運搬出来た. 倭兵の百濟派兵が 本格化し始めた. 新羅の平壤補給は 失敗したし, 倭國の百濟補給は 成功的だった. 661年 12月 平壤城の蘇定方軍隊は危險に瀕していた。 662年 2月 新羅の補給部隊が 平壤に到着したが, 成功的なものにならなかった. 蘇定方は多くの兵士の屍身を残して 唐へ撤軍した.

참고문헌 (15)

  1. "삼국사기", ~
  2. "구당서", ~
  3. "신당서", ~
  4. 노중국, "백제부흥운동사" (2003), 일조각
  5. 池內宏, "滿朝史硏究 上世 二冊", pp.106~107 (1950), 吉川弘文館
  6. 金榮官, "百濟復興運動硏究", pp.110~ (2005), 학연문화사
  7. "国史大辞典 13" (1992), 吉川弘文館
  8. 原島禮二, "朝鮮史硏究會論文集-日本における朝鮮史像- 11" (1974), 朝鮮史硏究會
  9. 古代朝鮮, "古代朝鮮と日本" (1974), 龍溪書舍
  10. "일본서기", ~
  11. 노태돈, "삼국통일전쟁사", pp.169~ (2009), 서울대학교 출판문화원
  12. "자치통감", ~
  13. 서영교, "고구려의 대당전쟁과 내륙아시아 제민족 -안시성 전투와 설연타-", 군사, (49), pp.195~230 (2003), 국방부군사편찬연구소
  14. 서영교, "나당전쟁사연구-약자가 선택한 전쟁-", pp.64~66 (2006), 아세아문화사
  15. 김지영, "7세기 고구려의 대외관계 연구", 박사, 사학과 한국사전공, pp.2014

관련 논문AI추천

이 간행물의 다른 논문 (10건)