아쿠타가와문학과 이상문학 비교고찰-<기아(棄兒) 및 양자(養子)체험>을 중심으로-
Akutagawa Ryunosuke & Yisang's Literature
0
조회
0
다운로드
6
인용
0
참고문헌
키워드
초록
Abstract
芥川と李箱の文学の原点には類似した養子体験がある。本稿はそれをめぐって両文学の授受関係の可能性や芥川文学に対する李箱の憧憬の内実に迫ったものである。 先に、実家および養家をめぐる養子体験を書いた文章を用例に挙げつつその内実を考察する。まず、実母の場合、両者同様に捨てられたというより、それぞれ母の発狂や世継ぎのために出されたということもあり、恨みより、憐憫の眼で眺めていることが分かる。が、実父の場合には、<父親殺し>的心境が読み取れる。一方、両父母および養家の人々の場合、共に血縁関係に基づく養子体験であり、愛され、なお期待されたことなどからすると、一般的な意味での悲劇性はあまり見当たらず、比較的に恵まれた状況だったと言える。しかしながら、むしろ、彼等が成長し一人前の大人になった際には、切り捨てることのできない実家や養家の絆による心理的重圧感や扶養の責任感で、一層悩まされる一方であった。 そういう中、芥川は自殺し、李箱も病死する。棄児および養子体験と相まって両作品に示される主な様相といえば、死への憧憬である。つまり、彼等の生の起点と終点は<棄児および養子体験>と余りにも早かった死があり、その二つの事柄でつながっているわけだが、それらを結び付ける二つの認識の軸がそれぞれ類似性と相違性を示しながら介在するのである。その一つは、<人工の翼>に託された芸術的自我の認識である。惨めな宿命的出自、そしてみすぼらしい現実を乗越えようとして、選び取ったのが<芸術>であった。が、李箱の場合、芥川の敗北的で悲劇的な<人工の翼>への憧憬をもって文学的生を始めているところに、その限界があると思われる。それと共に李箱の<人工の翼>の認識には痛ましい芥川の苦悩が見られない。もう一つは、<宦官>的な<生活的自我>の認識である。押しかかる生活の重圧感や扶養への義務感とは裏腹に彼等の生活力は萎縮し、彼等の重圧感は増すのであった。敗北的な芸術的自我意識と宦官に等しい生活的自我への認識が交差しながら死という模様を織り成すのであり、そこに彼等の文学の本質が存し、授受関係の可能性が論じられよう。
참고문헌 (13)
- "이상소설의 해석 -生과 死의 感?-" (1999)
- "이상문학 텍스트 연구" (1998), 서울대학교출판부
- "이상 소설 연구" (1999), 소명출판
- "李箱이 남긴 유산들" (1987)
- "이제 이상의 진실을 알리고 싶다" (1980), 문학사상
- "李箱의 片貌" (1937)
- "李箱文?의 外?的 要素 ?究" (1976)
- "내가 마지막으로 본 李箱" (1980)
- "이상,철천의 수사학" (2000), 소명출판
- "조사옥 이상문학과 아쿠타가와 류노스케", 제7집 (2002), 동아시아일본학회
- "李箱時代 젊은 예술가들의 肖像", pp.4~6 (1987)
- "일본에서의 이상 문학 연구", (3) (2004), 역락
- "芥川?之介의 文?과 李箱의 小?", 30 (1992)
