鄭三峯と林羅山における批判の位相
Be phases of Buddhism criticism in Jeong Sam-bong and Hayashi Lazan
2
조회
0
다운로드
1
인용
0
참고문헌
키워드
초록
中国南宋代の朱熹の仏教批判論は、仏教一般を批判することに主眼があるのではなく、仏教一般を批判しつつも、当時、禅仏教に士大夫が引き寄せられることに対する批判の論であった。これに対し、鄭三峯の『仏氏雑弁』は、その朱熹の言葉を正確に理解しつつ、朝鮮朝開国時点での仏教寺院勢力の社会的、経済的影響力を抑制するための理念的裏付けを説くことに意図があるものであった。一世代後の禅僧己和の仏教擁護論が、仏教が社会統治に有効であることを立証しようとする論であることと比較すると、この鄭三峯の仏教批判論が発せられた社会的な場とその意義がより明確になる。日本江戸時代初期にその生涯を通じて「朱子学」を日本社会に振興させる活動をし続けた林羅山はその若い頃、同じく京都に住み貞門俳諧の祖として知られ仏教の法華信徒であった江戸初期を代表する和学の文人、高級知識人で松永貞徳の仏教信仰を多岐に渡って批判し、これに対し松永貞徳が総合的に反論した問答の記録が残る。その論点をみると、両者の問答の限りにおいては、社会統治に対する仏教の有効性といった論点はほとんどみられず、朝鮮朝初期の鄭三峯、己和における仏教論、また中国南宋代の仏教批判論とは、課題を異にすることがうかがえる。以上のように、朱熹、鄭三峯、林羅山の三者の仏教批判を、それぞれが置かれた中国宋代、高麗末李朝初、日本江戸初期という場において捉えることにより、その批判の論とその論が機能する場との関係の特質を比較対照的に明らかにすることができる。
Abstract
中国南宋代の朱熹の仏教批判論は、仏教一般を批判することに主眼があるのではなく、仏教一般を批判しつつも、当時、禅仏教に士大夫が引き寄せられることに対する批判の論であった。これに対し、鄭三峯の『仏氏雑弁』は、その朱熹の言葉を正確に理解しつつ、朝鮮朝開国時点での仏教寺院勢力の社会的、経済的影響力を抑制するための理念的裏付けを説くことに意図があるものであった。一世代後の禅僧己和の仏教擁護論が、仏教が社会統治に有効であることを立証しようとする論であることと比較すると、この鄭三峯の仏教批判論が発せられた社会的な場とその意義がより明確になる。日本江戸時代初期にその生涯を通じて「朱子学」を日本社会に振興させる活動をし続けた林羅山はその若い頃、同じく京都に住み貞門俳諧の祖として知られ仏教の法華信徒であった江戸初期を代表する和学の文人、高級知識人で松永貞徳の仏教信仰を多岐に渡って批判し、これに対し松永貞徳が総合的に反論した問答の記録が残る。その論点をみると、両者の問答の限りにおいては、社会統治に対する仏教の有効性といった論点はほとんどみられず、朝鮮朝初期の鄭三峯、己和における仏教論、また中国南宋代の仏教批判論とは、課題を異にすることがうかがえる。以上のように、朱熹、鄭三峯、林羅山の三者の仏教批判を、それぞれが置かれた中国宋代、高麗末李朝初、日本江戸初期という場において捉えることにより、その批判の論とその論が機能する場との関係の特質を比較対照的に明らかにすることができる。
