有島武郞 『卑怯者』論 - 『運命の訴へ』の創作挫折との關連性の中で -
A study on Arisima Takeo's Hikyoumono
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有島は、藝術作品には「具象的と暗示的」という二つの面があるとし、「自分の作品が常にさうあつて欲しいと願つてゐる」と語っている。彼の作品はたえずこうした二面性が存在しているのである。『卑怯者』もその例外ではなく、具体的な意味世界とは別に 「暗示的」に示された世界があると考えられる。では『卑怯者』を「暗示的」な意味で見ていった場合、どういう讀みになるのだろう。これを明確にするのが本硏究の目的である。 作品における暗示的な意味というのは、作者の訴えたいこと、すなわち有島の心情․思想と密着した關係にある。だとすると、作品理解にあったては、創作当時の狀況を考慮する必要が出てくるだろう。『卑怯者』は『運命の訴へ』の創作が挫折してしまった直後に書かれており、この兩者には何らかの關連性があると推測される。では、有島は 『運命の訴へ』の創作挫折を通して何を自覺していったのか。彼はこの挫折を通して、ブルジョア的生活をしている者には、農民など所謂下層階級の人達に同化し、その立場でリアルにものを書くことはできないこと、また、ブルジョア階級からプロレタリア階級への移行は事實上不可能なことを自覺していった。 また、『卑怯者』が書かれる直前に、有島は日本社會主義同盟への加盟を見合わせており、このことと創作との關連性が予想される。有島は、社會主義同盟に參加しない事への後ろめたさ、卑怯者意識を持っていたものと思われる。こうした狀況のもとで『卑怯者』は書かれているのである。 『卑怯者』は、苦境にある<子供>を、弁護もしてあげず見捨てて逃げていく男が、自分は卑怯者だと痛烈に自己批判する作品である。<子供>を社會的に擴大して行けば、苦しい生活を强いられ、迫害されている社會的弱者を象徵していると見ることが出來る。そして、その窮地を知りながら、何もしてやらない(やれない)<彼>こそ作者自身の姿だと考えられる。 また、純粹な勞働者肌の配達夫を前にして、何も弁護することなく立ち去る<彼>の行動に、彼の思想をうかがい知ることができる。それはブルジョア階級に屬する者の勞働に根差した生活をしている者に對する負い目であり、またブルジョア階級はプロレタリア階級とは無緣の衆で、彼らに語ることを何も持たないとの考えの反映と考えられる。このように暗示の世界において彼自身の思想が表現されているのである。 『卑怯者』は、有島の否定的性格(卑怯者․臆病意識)をただ單に表現していった作品ではなく、当時の有島の思想的苦惱や心痛を「暗示的」に表現していった作品と考えられる。
참고문헌 (9)
- 有島武郞, "有島武郞全集"
- 內田 滿, "「『運命の訴へ』覺え書」,『有島武郞 虛構と實像』" (1996), 有精堂出版
- 山田昭夫, "有島武郞姿勢と軌道"
- 外尾登志美, "有島武郞 「個性」から「社會」へ" (1997), 右文書院
- "農場解放について 有島の作家的エゴイズムと農場解放"
- null, "有島武郞の思想と文學クロポトキンを中心に"
- 丹羽一彦, "有島武郞論 關係にとって<同情>とはなにか"
- 林淑美, "文學と社會運動" (1996), 岩波書店
- 今井淸一, "大正デモクラシ"
