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아쿠타가와 류노스케의 『참마죽(芋粥)』고찰

A Study on Porridge of R. Akutagawa

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주제분류일본어와문학

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Abstract

マルティン=ブーバーの『我と汝』には、「はじめには関係がある。」といい、この「関係」は二つの根元語、「我―汝」の関係と、「我―其」の関係として規定される。この根元語を離れている存在は一つもなく、この根元語によって存在は存在根拠を獲得するという。「我」は「我」のみで存在できない。「我」という時に、これは「我―汝」あるいは「我―其」の「我」であり、それ以外の「我」はあり得ないという。 利仁と五位の関係はブーバーの主張のとおり、「我―汝」の関係でない、「我―其」の関係である。五位の人格は非人格化され、「其」に転落されたのを五位は十分認識している。ブーバーはひいて、このような個々の「我」を越えてより深く穿鑿していけば、遂に「汝」でありながらも決して「其」にならない、「永遠の汝」と出会ことになるという。 芥川が『芋粥』を通して表現しようとした日本人とは何であろうか。それは絶対的ながら超越的な存在の不在から くる「我」と「汝」の存在規定を最初から不可能にする社会現象を言うのではないのか。ブーバーの主張のように 「我」は「汝」によって「我」になり、「我」になってから「我」はようやく「汝」と呼べる、その「我」と 「汝」の根拠はまったく持っていない日本社会を語ることになる。 それだけでなく、「あらゆる個々の汝は、永遠の汝がそれを通して望み見られるひとつの狭間である。」という 時、「我―汝」の関係も正しく設定することのできない日本人の思惟は本当に「永遠の汝」に及ぶことができるの か。換言すれば、絶対的でありながら超越的な神の存在を認識することができるかという疑問が提出される。そうでなければ、それは「我―汝」を「我―其」に変化させる、非人格的で、永遠なるものから閉鎖された世界、人間が人間によって疎外されるしかない世界が現前すべきだということになる。

참고문헌 (2)

  1. "芥川龍之介の?究" (1934), 大同館書店 p 233
  2. "干?する物語" (1997)

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