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아쿠타가와 류노스케(芥川?之介)의 프롤레타리아 문학과 계급에대한 인식 -『문예적인, 너무나 문예적인(文芸的な、余りに文芸的な)』 을 중심으로-

A study on Akutagawa -Ryunosuke's understanding about proletarian literature and class-

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주제분류일본어와문학

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Abstract

『文芸的な、余りに文芸的な』は芥川龍之介の最後の評論で、自分が到達した文学世界の本質を表明したのである。この評論は芥川が谷崎潤一郎の創作に関連して、小説における「筋の面白さ」ということに否定したのが契機になっている。それが後半部の方に行くほど、プロレタリア文学の台頭を念頭に置いた作家自身の文学観の表明と思われる内容が多い。そこから、本論文では『文芸的な、余りに文芸的な』を中心に、晩年の芥川が世界文学及び日本の既成の文学状況の中でプロレタリア文学をどのように認識したかを考察した。 芥川は理想のプロレタリア文学とはプロレタリア的魂によって「詩的荘厳」を具現した文学だと認識し、当時のプロレタリア文学に対してはその当為性を認め強い期待感を寄せている。しかし、その文学運動に参加せず、自分の文学とは距離を維持しようとした。文学において重要なのは「社会的意識」ではなくて、文学を文学たらしめる「詩的精神」で、プロレタリア文学も「詩的精神」をそなえなければならない。ところが芥川からすると、当時のプロレタリア文学はその達成度を見ればまだ未完の状態にある。それから、社会的意識と芸術性とを同時に実現するのがいかに難しいかを見抜いている彼は、「一行の詩」に人生をかける芸術家でありたいという態度をとる。しかし、彼は外の誰よりも早くから、以上のような自分の文学の限界に気づいている。芥川にとって人生はそれを生きていくうえで、変化させなければならない現実を変化させるといったものではなくて、人生は自分が本から習った世界を理解し解釈するための資料であり、文学においては「詩的精神」を具現する素材に過ぎない。このような芥川にとって、プロレタリア文学は必死になって現実の生の苦悩や葛藤を解決する方法ではなく、自分の芸術の枠内で知性によって解釈し再構成する対象である。それはプロレタリアの生に対しても同じである。芥川がプロレタリア文学にも執拗に「詩的精神」を追究した点では、芸術家としての彼の徹底性から来たものとして高く評価すべきだ。ただしプロレタリア文学の限界に対して厳しかった芥川の文学的根拠となった「詩的精神」は、その時代に歴史を越えた普遍的で永遠な価値と認めるには楽観的な姿勢だったと言うべきだ。

참고문헌 (12)

  1. "芥川龍之介に聯して", 一九一七年九月
  2. "芥川龍之介と新時代", 第三、 日本書究センタ、一九九三年九月
  3. "芥川龍之介¨作家とその時代"
  4. "階級と文との係を論ず", 一九二二年五月
  5. "文芸的な、余りに文芸的な", 至文堂、
  6. "芥川龍之介¨意識と方法"
  7. "芥川龍之介¨表現と存在"
  8. "日本文究大成¨芥川之介I"
  9. "芥川龍之介の復活"
  10. "芥川龍之介像と像"
  11. "文芸的な、余りに文芸的な", 社、 一九八七年
  12. "的自己破の芸術", 一九二七年九月

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