엔도 슈사쿠의『바다와 독약』론 -도다에게 있어서 ‘악’과 ‘죄’의 문제를 중심으로
遠藤周作の海と毒薬論 ー戸田における悪と罪の問題を中心に
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초록
本稿は遠藤周作の初期の代表作海と毒薬を対象作品とし、作品の主人公である戸田剛における悪と罪の問題を通して遠藤において悪と罪というものが一貫した概念ではないことを打ち出したものである。従来戸田に関しては良心が麻痺された、罪悪感が欠如された人間ということだけで論じられがちであった。しかし戸田は手記の中で罪の母胎になる湖という言葉を繰り返して語っており、このことから湖として表れた罪意識に戸田が決して無関心ではなかったことが窺える。また遠藤は悪を死の本能とみており、このような遠藤の言説に基づいてみると戸田の手記の中で死のイメージが表れていたことから戸田が悪というものの実体を知り、そのものについて常に認識していたのが明らかになる。このようなことからわかるように戸田の手記の中には悪と罪というものへの認識が描かれており、いつのまにか悪が罪に変わったことも描かれていて悪と罪というものが混在されて描かれていた。しかし遠藤は評論の中で悪を絶対的な否定、救われることができないものとして、罪は一過性の否定、救われることができるものとして厳しく区分していた。そして遠藤は自ら尊敬してきた作家であるモーリヤックのことを取り上げながらモーリヤックの失敗はテレ-ズのこの悪にふれた時、それを罪とおなじように見なしたことであり、罪と悪とを混同したことであり、悪を罪とおなじようにX(イエス)を求める裏がえしの否だと考えたことだったと論じていたのである。このような遠藤の言説を踏まえた上で考えてみると戸田の内面に悪と罪というものが混在されていて、悪というものが罪に変わってそこから救済の可能性が示されていたのは明らかに矛盾したことであった。つまり遠藤も罪と悪とを混同し悪を罪とおなじようにX(イエス)を求める裏がえしの否だと考えたモーリヤックの失敗と同じ失敗を犯していたこととなる。このことからわかるように評論の中で記されている悪と罪の様相が小説の人物を通じて具体的なものとして描き出されていくと遠藤に実感され内面化された悪と罪の様相が描き出されることによって評論の中で遠藤が強調して記していた悪と罪の属性が崩れていく様相として表れていた。このように遠藤において悪と罪というものが一貫した概念ではないことから生み出される矛盾を解いていくことは遠藤文学を理解する上で極めて大切な問題である。悪の中から悪性を無くし救われるものである罪に至らせるためにはそのような悪性を赦してくれる、赦しの神、愛の神が出てくるのは必然的な過程だったのである。
참고문헌 (15)
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