엔도 슈사쿠의 『바다와 독약 』(海と毒薬)론
Shusaku Endo “the sea and poison”idea
0
조회
0
다운로드
0
인용
0
참고문헌
키워드
초록
遠藤文学を理解しようとすることは、宗教文学としての読みの強制となる危険性を示すものであることも見ておく必要がある。そうした問題点を踏まえて、構造主義を経た現在の文学研究の一つの生き方としてナラトロジー(語り、語り手論)の着目しつつ、登場人物の人物像とともに、彼等が示している神の正義について考察してみたいと考えて分析した。その結果、この小説の序章は語り手によって書かれてゆく手記であることが明瞭に示されているし、物語中には、それがある程度の時が経過した後の回想であることを示唆した。手記であることが題名で明示されている手記は、生体解部という名を借りた殺人行為に参加するまでの、行為直前の自己分析、意味付けの手記ということが分析される。すなわち、手記という形式を借りて二人の書き手が自分の内なる世界を表出しようとしたことである。しかし、これらの手記を語り手がいかにして入手し得たかが不明であるので、それぞれ手記の書き手と読み手の役目が整合性を持って配置されているとは決していえない。また、キリスト教的イメージを読み込もうとする従来の論文に問題の所在を確認していくと、登場人物が示している神については、あくまで作品内の次元から研究されなければならない、ということである。作品内で主要人物の一人である戸田が運命というものから自由にしてくれるものを神と呼んでいる。しかし、神の言葉を口にするのは、以前から文学や宗教についての思案をめぐらしたりするからである。文学青年である観点を持つことも許す以上は、神という語が出ても、必ずキリスト教の神だとはいえない。すなわち、『海と毒薬』の語り手は、人物が示している神の存在を明確に示していない語り方を帯びていた。
참고문헌 (9)
- 山本健吉, "『海と毒薬』―小説中の日本風土" (1958), 文学界
- 亀井勝一朗, "選後評" (1958), 新潮社
- 北森嘉蔵, "『海と毒薬』について 第一回書評会", 兄弟, ~ (1960)
- 武田友寿, "遠藤周作の文学" (1965), 聖文社
- 下山孃子, "『海と毒薬』― <語り>のデイメンション─", 日本文学研究, ~ (2003)
- 川島秀一, "周作周作(和解の物語" (2000), 和泉書院
- 遠藤周作, "人生の同伴者" (1995), 新潮社
- 上総英郎, "遠藤周作論" (1987), 春秋社
- 박승호, "엔두슈사쿠『바다와 독약』론", 13 (2000), 대한일어일문학회
