엔도 슈사쿠(遠藤周作)의 『철의 항쇄』론 - 면종복배의 삶과 신앙의 길
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초록
本論文の目的は、作品『鉄の首枷』について歴史的考証を加え、正しいか正しくないかを明らかにすることではなく、小説の一領域としての『鉄の首枷』についての考察であることを明らかにしておきたい。本論文では、作品『鉄の首枷』に描かれた小西行長の面従腹背の経緯と、真の自我との出会いを通じて信仰に至る道程を明らかにし、遠藤の別の作品『沈黙』、『銃と十字架』、『侍』との比較分析を通じて、『鉄の首枷』における遠藤のメッセージに対し新しい接近を試みた。こうした考察を通して、『鉄の首枷』における作家の意図は次の4点に整理してみることができた。第一に、神は沈黙しているのではなく、一度結んだ関係を通じて、私たち人間が意識していようといまいと、私たちの人生における悲しみと喜び、苦痛と苦悩の中に常に共に歩んでいるという点。第二に、信仰というものは一日で芽生えるものではなく、永い歳月の苦痛と苦悩の蓄積の中で真の信仰に育って行くという点。第三に、世俗の中で面従腹背の人生を生きていくほかない弱い私たちの人生を慰め包容する愛の神の姿を描き出したという点。第四に、歴史の裏道に消えて行った敗北者としての小西行長の人生に再び光を当てることによって、歴史的な人物として、信仰の人としての復権を試み、救いの可能性を提示した点である。私たちの生活の中で生ずるさまざまな出来事の意味は、私たちの生が尽きる日まで誰も分からないかもしれないが、‘私たちの人生には何一つ無駄なものはない’という作家遠藤の言葉のように、『鉄の首枷』を通じて無関係で無意味に見える人生の詳細な部分にまで神の手助けと意味が含まれているということがわかる。『鉄の首枷』の主人公小西行長の人生も、永らく信仰に目を向けないまま豊臣権力下で野望に疾走する‘自らがはめた首枷の人生’だったと言える。キリスト教禁止令以後始まった小西の面従腹背の二重人生は、挫折と屈折で綴られ、無常な人生の終わりに真の神との出会いを通じて最後には堅固な信仰の人としてよみがえることになる。結局、『鉄の首枷』は‘神は我々の人生のすべてを、我々の人生の良きことも悪も、悦びも挫折をも利用して、最後には救いの道に至らせたもう。神は野望という行長の首枷を使って、最後には彼を捕えたもうた。一度、神とまじわった者は、神から逃げることはできない’という強いメッセージを伝えていると言えよう。
참고문헌 (15)
- 遠藤周作, "鉄の首枷ー小西行長伝" (1977), 中央公論社
- ․遠藤周作, "銃と十字架", pp.85~92 (1978), 中央公論社
- 遠藤周作, "沈黙", 新潮現代文学, 41, pp.18~147 (1978)
- ․遠藤周作, "侍", pp.118~405 (1990), 新潮社
- 遠藤周作, "遠藤周作文学全集 第十巻 評伝1", pp.342~347 (2000), 新潮社
- 片岡弥吉, "日本キリシタン殉教し", pp.6~ (1991), 時事通信社
- "『침묵』론", 일본학보, 31 (1993), 한국일본학회
- "『무사』론", 일본문화학보, 7 (1999), 한국일본문화학회
- "『총과 십자가』론", 일본학보, 49 (2001), 한국일본학회
- 江藤淳, "群像 日本の作家22 遠藤周作", pp.195~204 (1991), 小学館
- 広石廉二, "遠藤周作の縦糸", pp.5~61 (1991), 朝文社
- 笠井秋生, "作品論 遠藤周作", pp.204~218 (2000), 双文出版社
- 末國善己, "遠藤周作の歴史認識をめぐって", pp.133~140 (2006), 国文学解釈と鑑賞
