『마음』에 나타난 「先生」의 윤리성과 「私」의 위치
Ethicality of 「Sensei」and Posation of 「Watasi」in Kokoro of Sōseki Natsume
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초록
近代科学の生んだ自己肯定的な知識人の典型的な姿を描いた『行人』の後に発表された『こころ』(1914)は自意識の強い近代知識人の自己否定への過程を「先生」という主人公を通して見せてくれた夏目漱石の代表作である。信じていた叔父から騙されて深刻な他人不信の中に閉じ込められていた「先生」は、親友のKの自殺をきっかけにして自分も利己的で醜い叔父と同じ人間であるという自己不信の沼に落ち込んでしまう。こういう生き方は時の流れと共に人間全体への不信となる。西洋のように絶対者への信仰をもっていない日本人にとって自殺は罪でなく、自分の罪の浄化であり、自らを納得させる贖罪の有効な方法である。「先生」のような自己不信は存在論的懐疑になりやすいので、生きていくのが死ぬことよりもっと脅威的な状況のなかで、自己慰労能力の欠如していた彼の自殺は必然的結果であり、唯一の解決策であった。遺書を「私」に残して自殺した彼において「私」という存在こそ自殺の意味であった。言ってみれば自分の生の痕跡を若い「私」の頭のなかに残せるという確信をもって自殺が断行できたのである。「私」は「先生」の自殺の前提条件であって、彼の希望でもあった。したがって、「私」はこの作品の中で「先生」と対等な位置を占めている存在といえる。「先生」は自ら倫理性の強い人だと信じて、またその故自殺もしたと評者からも言われているが, 叔父とKとの関係、「私」への接近、自殺などで見せてくれた彼の行動と判断は一般的に解釈されている倫理的な生き方でなく、自意識の強い近代知識人のエゴイズムが生んだ自己否定の不幸な生であったと言えよう。
참고문헌 (11)
- "漱石全集 (全35巻)" (1979), 岩波書店
- 柴田勝二, "村上春樹と夏目漱石" (2011), 祥傳社
- 小森陽一, "漱石を読みなおす" (1995), 筑摩新書
- 小森陽一, "出來事としての読むこと" (1996), 東京大学出版会
- 小森陽一, "漱石の「こころ」" (1994), 翰林書房
- 石原千秋, "反転する漱石" (1997), 青土
- 伊豆利彦, "新日本新書 夏目漱石" (1990), 新日本出版社
- 重松泰雄, "漱石 その歴程" (1994), 桜楓社
- 平岡敏夫, "日本近代文学の出発" (1992), 塙新書
- 三好行雄, "漱石文明論集" (1986), 岩波文庫
- "漱石研究 第6号" (1996), 翰林書房
