河内百済寺跡の発掘調査
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초록
百済寺跡は、百済最後の国王、第31代義慈王の後裔、百済王氏が8世紀中頃に建立した氏寺の跡である。五代孫の百済王敬福の時に本貫を難波から交野に移し、氏寺として百済寺を創建して一族繁栄の基礎を築いたとされる。1941年、国史跡に指定され、1952年には、造営氏族がそれとわかる数少ない寺刹であり百済王氏の歴史的背景と相俟って、日本古代史における日朝文化交流の史実を徴証する遺跡である、として特別史跡に昇格した。双塔式伽藍配置で、中軸線上に南門・中門・金堂・講堂・食堂を一直線に配し、中門から発する回廊が東西両塔を包み込んで金堂側面中央に繋がる堂塔院の形式は、統一新羅時代の双塔式伽藍の影響と見られ、渡来氏族の氏寺に相応しい伽藍の形式と言える。そして四至が一辺長約140mの築地大垣で囲繞され、南大門・東門のほかに北門・西門も備え、堂塔院を取り囲む付属院地も築地塀によって整然と配置されており、枘を造出した円座の礎石・壇上積の基壇化粧など、当時の官寺造営にみる最新技術を駆使されていたことが明らかになっている。さらに百済寺の北方には檀越の百済王氏の居住地域、禁野本町遺跡が広がるが、伽藍中軸線に一致する南北道路が設けられ、北門の先545m(5町)で、これに交差する東西道路からなる十字街が検出されている。ここを起点に南方に広がる一町(109m)方格群の存在が想定され、南方に5町隔てた2町四方(4方格)を寺地として480尺(144m)四方の北面する寺域を構えたと考えられるようになった。百済寺の造営された地、「交野」は、桓武天皇が延暦4年(785)に日本で初めて天壇を築き郊祀をおこなった、まさに「天地交わる」処に相応しい名であるが、平安時代初期には天皇や皇族が放鷹遊猟を楽しんだところとして著名である。百済王氏は桓武・嵯峨朝には両天皇の交野行幸の折毎に、ここを舞台に饗応を重ね、一族の昇進にあずかるとともに外戚としての地位を高めた。特に桓武天皇は生母、高野新笠が百済の武寧王の後裔であることから、百済王氏を「朕が外戚」として特に優遇したという。百済寺跡は、こうした百済王氏の本貫を交野に移して以後の盛衰を表徴する遺跡といって過言でない。
Abstract
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참고문헌 (22)
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