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朝鮮後期 銀流通

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주제분류역사학

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これまで日韓の朝鮮史学では朝鮮後期における銀の流通についてほとんど研究がなされてこなかった。その理由は、第一に、朝鮮経済が同時期の中国や日本と比較して貨幣をほとんど必要としない自給自足的性格を有していたことである。朝鮮は永らく綿布や米などの現物貨幣を交易や納税に使用し続けた。銀は壬辰倭乱の際に明軍が兵餉として使用したことを契機に流通が始まったが、倭乱終息後は主に中国や日本との貿易に使用されるだけで、国内ではソウルを除きほとんど流通しなかった。第二の理由は、朝鮮後期の貿易構造が主に中国と日本との中継貿易であったことである。その過程では、銀は日本から中国へ一方的に通り抜けて行く貴金属に過ぎず、朝鮮国内で貨幣として循環することはなかったものと見られてきた。ところが、銀を単なる貴金属商品と見なすと、日本が人蔘代往古銀を鋳造したことの歴史的必然性が理解できない。1609年の己酉約条によって倭乱以降途絶えていた対日貿易が再開されたが、当初対馬藩は幕府が銀座で鋳造し国内で通用させていた品位80%(銀80%・銅20%)の慶長銀を輸出していた。朝鮮はこれを丁銀と呼んだ。ところが元禄8年(1695)、幕府は通貨供給量を増加させるため慶長銀を品位64%の元禄銀に改鋳した。対馬藩はしばらく手持ちの慶長銀でしのいだが、朝鮮政府との厳しい交渉の末、元禄12年(1699)より元禄銀での支払いに切り替えた。その後幕府は更なる悪鋳を行ったが、それらの銀貨は到底朝鮮では受け取られないため、宝永7年(1710)より人蔘代往古銀(特鋳銀)と呼ばれる品位80%の輸出用銀貨が鋳造され、正徳2年(1712)より輸出が開始された。その後正徳4年(1714)に国内銀が品位80%に戻されたことにより、享保元年(1716)より国内銀の輸出が再開されたが、元文元年(1736)に再び国内銀の品位が下げられたため、元文4年(1739)以降は人蔘代往古銀の輸出が復活した。一方倭銀の終着点である中国では、地域や業種ごとに異なる種類の銀が通用していたが、品位は足銀で99.2%、紋銀で94%前後であった。地域間交易を現銀で決済する場合には、銀炉と呼ばれる民間の銀細工匠が改鋳を行っていた。従って朝鮮が80%の品位にこだわったのは、中国貿易のためではなく、国内に何らかの通貨事情があったものと考えざるを得ない。しかしこれまで人蔘代往古銀は日本史の側から研究されてきたため、受け取り手である朝鮮の通貨事情については全く検討されてこなかった。筆者は本稿において朝鮮が何故品位80%の丁銀を選好したのか、そして倭銀の輸入が逐次逓減し、18世紀半ばに杜絶するに至って、朝鮮は対清貿易の決済手段を何に転換したのかについて考察した。結論を簡単に要約すると以下のようになる。日本から朝鮮への銀輸出は17世紀初に始まり、18世紀中盤に杜絶した。倭銀の大部分は使行貿易を通して中国へ輸出されたり兵餉として各衙門・軍営に備蓄されたりしたが、ソウルでは丁銀が通貨として市場に流通した。朝鮮政府が品位63%と見なした元禄銀や品位96%と措定した国内産銀である礦銀は市場では通用不能な「死貨」と評価され、専ら備蓄に振り向けられたが、倭銀の輸入量が減少するに伴い、政府は備蓄された元禄銀を、元禄銀払底後は礦銀を輸出に振り向けるようになった。漢城市場が丁銀を選好したのは貨幣として最も優れているから、すなわち相当量が出回り、極印が打刻されていたため、真偽の弁別が容易であったからである。逆に礦銀は鋳造過程で人為的な品位低下が行われ、中国商人のように品位鑑定能力を持ち合わせていない朝鮮商人は容易に騙されるため、国内では忌避されたのである。

참고문헌 (6)

  1. 田代和生, "近世日朝通交貿易史の研究" (1981), 創文社
  2. 田谷博吉, "近世銀座の研究" (1963), 吉川弘文館
  3. 宮下忠雄, "中国幣制の特殊研究" (1952), 日本学術振興会
  4. 韓明基, "一七世紀初 銀의 流通과 그 影響", 奎章閣, 15 (1992)
  5. 岸本美緒, "明清と李朝の時代" (1998), 中央公論社
  6. 山本進, "朝鮮王朝後期の貨幣政策と鴨緑江辺経済", 外国語学部紀要, (129) (2010)

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