탈‘전후’와 ‘현대’의 경계-오에 겐자부로와 무라카미 하루키를 비교하면서
Beyond “Postwar” and the Boundary of “Modern”: A Comparative Analysis of Oe Kenzaburo and Murakami Haruki
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Abstract
「戦後」文学または「戦後派」文学者という用語は日本文学で用いられる特殊な用語の一つである。「戦後派」文学以降、その流れを汲みつつ現代へ移行する、日本の現代文学の一断面を捉え返すのが本論の目論見であるが、そのために「戦後派」文学と脱「「戦後」文学を繋げる大江健三郎と、「戦後」という陰をもはや残さない村上春樹とを比較しながら検討したい。 まずこの議論の範囲を簡単に述べよう。脱「戦後」の時代には、大江健三郎の他にも石原慎太郎、開高健など各々の個性を放った作家たちが、脱「戦後」の時代的特徴を描いている。またこの論で取り上げる村上春樹とほぼ同じ時期か、または少し前の時期に出現した中上健次や村上龍も夫々違う個性をもって、脱「戦後」から「現代」へ移行する「日本」を描いた。これらの中で論議の對象として大江健三郎と村上春樹を取り上げる理由は、この二人の文学が夫々の時代における文学の傾向を代表するような資質を有しているからである。 大江健三郎は自分自身を「戦後の民主主義作家」と定義し、それを通して「日本」を越え、世界へ向けて発信する主体的な存在である事を、確認しているかのようである。だからこそ彼は日本という地域性に拘らず、外へ向けて開かれている姿勢を保つことが出来たと思う。一方で、日本の敗戦後に生まれた世代である村上春樹の場合は、戦後の高度成長期とともに育まれ、ポストモダン時代へ滑り込んでいく「現代」文学の担い手と見ることが出来よう。つまり村上春樹の文学は、「戦後」という重い主題とは縁遠い、ということである。 今なお、旺盛に作品活動をしている二人の作家の、全く違った志向を世代の差として片付けることは容易いが、それだけでなく、「戦後」すなわち敗戦を文学的出発とする大江と、高度成長期にその源泉をおく村上の文学の間には、「戦後」から「現代」に至る様々な問題が含まれていると言ってもいい。この論では二人の作家が求めるところを点検しながら「戦後」と「現代」の境界の意味について考えてみた。
참고문헌 (16)
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