고희동의 동아일보 창간호 삽화와 고구려 벽화
高羲東の東亞日報創刊号揷画と高句麗壁画
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東京美術学校西洋学科の最初の朝鮮留学生、高羲東。彼はすでに国権を失って西洋美術への制度的支援はもちろん、絵の具さえ手にいれることが難しかった状況で西洋画家となった。だとしても、あまりにも早かった西洋美術の放棄と東洋画への回帰、日韓併合によって国の主権が失われる1910年代を生き抜いたものとして、歴史意識の不在は批判を免れることはできない。もちろん、彼の後、華麗に登場した金観鎬のように画家として優れた才能の持ち主でもなかった高羲東は美術教育機関が全無だった韓国社会において書画協会を結成して、教育と展示の機会を与えるなど画家より教育者としての道へ忠実したという点は韓国近代美術において評価に値する。ところで高羲東の履歴で注目されなかったもう一つの面は新聞と雑誌に掲載された彼の挿絵で1914年、崔南善によって創刊された啓蒙雑誌、『青年』の創刊号表紙画と1920年、創刊される『東亜日報』の創刊1面の挿絵などがある。特に注目に値するのは、『東亜日報』の挿絵で、この挿絵は関野貞らによって調査された平壤の遇賢里大墓(江西大墓)の玄室持送西北隅に描かれた飛天の姿はもちろん、玄室持送の真ん中と蓮のはなさえも非常に類似している。しかし、高羲東が直接、江西大墓をみることはほとんど不可能で、おそらく彼は1915年、関野貞が平壤、伽倻]一帯を調査したものを出刊した 『朝鮮古蹟図譜』を参考にした可能性が非常にたかい。それは飛天がおめでたことを祝うメッセンジャの役割をするためであろう。その上、韓国の正当性を高句麗においた大韓帝國の有志を反映しようしたものであると思われる。これは彼は 3·1独立運動の民族の代表、33人であった吳世昌をはじめとした崔南善, 朴漢永, 李沂などと長い交遊關係を維持していたことからも高羲東が高句麗壁画を借りて挿絵を制作した意圖を十分に考えることができよう。
참고문헌 (15)
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