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安東將軍から天皇へ ―5∼7世紀における倭國の變容と東アジア ―

安東將軍에서 天皇으로 ― 5-7세기 倭國의 변용과 동아시아 ―

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주제분류역사학

초록

本報告における考察とこの高見とを接合させれば、當初、「天弟、日兄」の立場をとった倭國は、文帝の訓令を受け、「天子」という表現を和らげた隋の天子と對等の稱號を名乘った。しかしその後再び今度は煬帝から「訓令」を受け、それを受ける形で「謹白」などの表現を用い、隋の皇帝を先輩か兄に見立てこの問題を処理しようとした、その過程で「天皇」の用語がもちいられたということになる。 この際、倭國が一定の譲歩を示しつつも、一貫して強い自己主張を貫いていることは注意すべきである。こうした自己主張は倭の五王のときに始まると考えられる治天下大王の用法などにも見られ、遣隋使段階の天子や天皇號の採用は、そうした倭の五王以來の倭國王権の自國を中國と別個の「中華」とせんとする展開の行き著いたところに生じたものであるといえる。報告者は先に古代日本におけるこうした中華意識が中國の政治思想の受容とともに形成されたものであること、そしてそうした動きは日本において創始されたわけではなく、中國の魏晉南北朝期の華北における非漢民族國家や朝鮮における高句麗などに旣に生じていたものであることなどを指摘したことがあるが、本報告で考察した倭國と隋との間の交渉の實態を踏まえるとき、倭國は真に邪馬台國や倭の五王の時代などに中國の朝貢國となったという意識をもったのであろうかという疑念を懐く。確かに、漢委奴國王印を受けた奴國を持ち出すまでもなく、古代日本における倭國の王は、卑彌呼の親魏倭王の稱號と金印、倭の五王が南朝から受けた官職や王號、あるいは倭の五王最後の王・倭王武が南朝宋の最後の皇帝・順帝に對して奉った國書の中で、自ら中國皇帝の「臣」と表記しているなど、倭の五王の段階まで中國王朝の冊封國であるとの立場をとっている。しかし、この遣隋使段階における倭國の自己主張の強さをみるとき、卑彌呼らにとって、中國に「朝貢する」と言うことはそのときそのときの時代狀況に對應した「方策」という面ももっていたのではないかという感を懐く。こうした考え方は、古代日本は、中國の冊封體制に入ることによって中國の思想や文物を取り入れつつ、魏晉南北朝期における中國の混亂に乘じて政治的獨立を推し進め、最終的に天皇制に基づく律令制國家を完成したとする従來の研究の立場と矛盾するものではないが、微妙に齟齬するところもある。こうしたについての檢討は今後の課題としたいと思う。

Abstract

일본에서 天皇 칭호가 언제 성립되었는가는 推古시기와 天武시기로 보는 두가지 설이 있는데 후자의 견해가 현재 많은 지지를 받고 있다. 이에 대해 堀敏一씨는 천황이라는 용어가 먼저 외교문서에서 사용되기 시작하여 종래 대왕 혹은 오오기미와 병행되면서 국내에 통용된 것은 아닌가 그래서 마침내 율령에 천황의 칭호가 정착된 된 것이라는 흥미로운 의견을 제시한 바 있는데 이는 매우 돋보이는 탁견이었다. 본고에서는 왜국의 왕권이 중국왕조로부터 부여된 안동장군․도독의 단계로부터 천황의 단계로 변용하는 과정을 추구하여 굴민일씨의 견해를 뒷받침하였다. 즉 고대 일본에서는 왜의 오왕 단계에서는 여전히 중국 왕조의 책봉국임을 인정하였지만, 이후 중국의 정치사상을 수용하여 형성된 중화의식이 왜의 왕권을 중국과 별개의 중화로 보게 되었다.

참고문헌 (3)

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