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福澤諭吉と金玉均の交流に關する考察

A study on the relationship between Fukuzawa Yukichi and Lim Ohk-hyun

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주제분류일본어와문학

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Abstract

金玉均は1882(明治15)年3月から8月にかけて徐光範と共に日本を訪問した。京都の東本願寺に滞在している時に、連絡を受けた福沢は以前から李東仁を通して金玉均の人物․門地等を紹介されていたので、直ちに門人の寺田福寿に京都の東本願寺まで出迎えさせた。 福沢は、三田の自宅で金玉均に対面した時、金玉均が機鋒非凡な人物であることを見抜き、その性格が勇敢且つ明快であり、祖国の独立を願う熱情に内心満足と驚嘆を感じたと言う。それで福沢は、金玉均を別邸に滞在するよう特別に配慮すると共に、金玉均を井上馨、後藤象次郎、伊藤博文、大隈重信等の日本政界の重要人物や、当時財界の大物であった渋沢栄一を始め多くの民間の有志に紹介した。これらの事実からも、福沢がいかに金玉均の清廉潔白な性格に好意を寄せていたかが窺えよう。そのような金玉均に対する好意は終始一貫して変らなかった。福沢は、金玉均の日本での亡命生活中、常に自ら精神的、金銭的援助を惜しまなかったのみならず、金玉均が旅行先で、福沢の弟子に借金をする時に保証人になり、自ら金玉均に代って借金を返済しているのである。 更に、金玉均が小笠原島に強制的に隔離された時には、自ら『時事新報』に社説を載せ、日本政府の金玉均に対する不当な処置に抗議すると共に、多くのつてを頼って金玉均釈放運動を展開するのである。 福沢は金玉均が上海で暗殺された時、弟子である駒込真浄寺の住職․寺田福寿に金玉均の法名を命名させ、位牌を作りそれを自宅に安置して47日に当たる4月24日に自宅で法要を行なった。金玉均の死後、福沢の同情は遺族の上にまで及び、其未亡人と忘れ形見の1人娘との不幸なる境遇を憐み、これを東京に呼び寄せて母娘を世話しようとまでしたのである。このような福沢の金玉均に対する人間的な交流は、朴泳孝をはじめとする他の朝鮮開化派との交流には見られない点である。 以上のように、福沢が朝鮮開化派の日本での亡命生活中、終始一貫して精神的、物質的援助を行なったことは良く知られた事実である。勿論、福沢が朝鮮開化派を支援した背景には、彼等を利用して朝鮮改革及び朝鮮への内政干渉を行なうための‘基盤造成’という面が全くなかったわけではないが、そういった‘利用論’だけでは割り切れない面が福沢と朝鮮開化派との交流、特に金玉均との交流に見ることができる。

참고문헌 (2)

  1. "福?諭吉と朝鮮:時事新報社?を中心に" (1997)
  2. "第6章 金玉均暗殺事件과 韓日間의 外交紛?", pp.157~180

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