일본 근대문학 속에 나타난 '광기'의 언설- 시마자키 도손의 「어떤 여자의 생애」를 중심으로 -
The Meaning of Insanity in Modern Japanese Novels - Especially on Shimazaki Toson's Aru Onnano issyou -
0
조회
0
다운로드
0
인용
0
참고문헌
키워드
초록
Abstract
従来島崎藤村の短編小説ある女の生涯は、主人公おげんのモデルとなった長姉高瀬園子や他の長編小説とのつながりの中で取り上げられることが多かった。藤村の一連の作品を一貫した眼差しで総体的に捉えようとする作品研究により、ある女の生涯の独自性はやや度外視されてきたきらいがある。 そこで本稿では、こうした既存の観点から離れ、ある女の生涯の中で描出した狂気の言説について探り、当時の日本の社会の中で狂気をめぐるパラダイムがどのような様相を呈していたのかを明らかにすることを研究の目的とする。 まず主人公おげんの狂気を記憶の闘いという側面で論を展開した。おげんの過去の記憶が幼少期の時間にまで根を下ろしていることに着目し、家を離れても一切の過去の記憶を忘れることのできないおげんの内面を探った。 次におげんの内面の錯綜の様相を性的本能と抑圧という二律背反の対立構図から分析した。特におげんの内面に潜む動物性に注目したが、それは近代的な視角から見たときの<狂気=動物的次元>というパラダイムを暗喩しているものと解せられる。 それからおげんの狂的様相をいちばん顕著に表しているものとして、内面における二人の人の対話にも注目した。おげんの内面の二人の人の対話は、おげんの狂的側面と正常な側面を同時に提示しているという特徴が見られる。それは他者への意識が内面化し、自意識の分裂が先鋭化して、強く意識されることによって生じたものと考えられる。 おげんは作中で幾度となく<滑稽>或いは<トボケ>の行動を取るが、そこから一種の<道化>のイメージが浮かび上がる。しかし、それは決して狂気の行為ではなく、親戚達の仕打に対する抗弁として意図的に行われた行為であると思われ る。ある意味では<甘え>の行動ともいえるおげんの一連の行動から、他者によって理解されないおげんの<真>の姿を浮彫りにしようとした作者の意図が読み取れる。 それから最後に作中における<鏡>の象徴的意味について探り、悲劇的な死を遂げてしまった父の生涯が、そのままおげんの内面に統合されていく経緯を論じた。それによってある女の生涯は、脳病の所産として認識され始めた狂気がその言葉を失い、<ハレ>の性質を剥奪されるとともに単なる<けがれ>として意識され、社会の外部に隔離されるという同時代のパラダイムを反映していることが分かった。 以上のようにある女の生涯を時代的背景まで視野に入れて探ってみることにより、おげんの<狂気>の意味を、他者の視線や近代化に伴う制度的装置の変化という側面から位置づけ、作品の持つ独自性を明らかにした。
참고문헌 (7)
- "광기의 역사" (1999), 도서출판 인간사랑
- "日本の狂氣誌" (1998), 講談社學術文庫
- "日本の狂氣誌" (1998), 講談社學術文庫
- "ある女の生涯 - 春 と 夜明け前 のはざまに-"
- "<流浪する狂女>と<二階の叔父さん>-藤村 ある女の生涯』と 出發: 佐藤泰正編『文學における性と家族" (1999), 笠間書院
- "世界シンボル事典" (1996), 大修館書店
- "ある女の生涯 論-ある女の生涯:夜明け 前-", 30 (2002)
